知られていない歴史

教科書でしか学ぶことのできなかった数十年前に比べて、今は教科書の他に、漫画や時代劇、インターネットの普及で、教えられた歴史とは全く違う、現実味のでた歴史が発見・発表されています。

すべては「説」になりますが、例えば「織田信長は本能寺の変以前に死んでいた可能性がある」「上杉謙信は女に全く興味がなかった。
女だったという噂がある」など、自分が思っていた歴史とは違う物事や知らされていない意外な部分があるようです。

どの歴史でも今の日本の土台となっていることに間違いはありませんが、現代の日本史・世界史は、数十年前に書かれていた内容と違っている部分が増えているようです。
教科書以外に学ぶ手段が増えたことで、もっと日本の歴史に興味を持つ人が増えたらいいですね。

そもそもなぜ、歴史を学ぶ必要があるのかということを、一切、教えない教師がいるというところも好き嫌いの乖離の原因の一つでもあるような気がしますね。
古き良き日本を知るなど、情緒的でも良いのです。

そこから何を読み取り、現代の生活の中に活かすかが大事なんですよね。
何事も、まずは先人に学ぶということを徹底的に教え込むこともよろしいのではないでしょうか。
もちろん成功事例ばかりではなく、失敗事例を取り上げ、なぜ失敗したのかを考えることも、必要な時があるわけですからね。

歴史上の人物については、残された文献等から推測するしかありませんが、プロファイリングという観点だと興味を持つ人もいるのではないでしょうか。

歴史について

歴史認識という言葉を最近よく聞く。
歴史に対する認識。
難しい言葉である。
それを誰かと共有するのは尚のこと難しい。
それが、違う立場の人間であればなお更。

そもそも歴史というのが、誰かの記録ありきで成り立っているものだ。
言ってみれば、歴史そのもののなかに、既に誰かの認識が含まれている。
ある事柄について、Aという立場をとっていた人がいて、A側から見える事実を手記として遺したとする。
そしてまた、反対の意見を持ち、Bという立場からものを見た人がいるとする。
けれどもそのB側の人が見た事実を遺した手記が、何らかのきっかけでこの世から消滅してしまったとする。
となると、後世に残るのは、どう探したってAという事実だけである。
それが真実の歴史として語り継がれていくのは無理のないことだ。
そういうことが、実際の世の中で起こらないということないはずだ。
もちろん専門家の人たちは、もっともっと、私の考えが及ばないくらいに精密に、そして多角的にひとつの事柄を研究しているのだろうけれど、どうしたって記録と言うのは100%確実である保証はどこにもない。
国家間の話になればなおのことだ。
誰だって自国の肩をもつにきまっているし、もし言論の規制がかけられていたとしたら、自国にとって悪いことなど遺す筈もない。
それを二つの国がやっていれば、いつまでたったって歴史認識は平行線をたどって交わるはずもない。
過去の真実を追い求めるのも大切だけれども、それに振り回されるのではなくて、今の姿を認めあうことはできないものか。
過去は還らないものなのである。

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